61_「着た日」

「時間が迫る、気は焦る」という昭和のCMソングが頭をよぎる。
きもので出かけるつもりだったのだけれど、朝から小さなトラブルが続き、思いのほか遅くなってしまった。着ようかな、やめようかなと迷いながら、とにかく先に化粧と髪の支度だけ進めて時間を稼ぐ。

今日は、初めて会うお客さまと打ち合わせの予定がある。
紹介者によると、お相手は八十代の男性、それなりの社会的地位にある方とのこと。とすると、「ちゃんとしたきもの」で行くべきなんだろうか。江戸小紋(それも三役)、白襟に白足袋。ああ、白い鼻緒の草履も準備しなくちゃ。これならまず間違いはないけれど、なんだか自分にはなじまないし、「よそゆき」すぎる気がする。かといって、いつもと同じ洋服で、というのもつまらない。

やっぱり、きものにしよう。
サイズ直しをしてもらって格段に着心地良くなったGritterは、遠目には渋い銀地に見える。帯は博多の半幅だけど、良いものだし羽織も着るからOK。黒地に羽根柄の刺繍半襟、そしていつもの足袋ブーツ。この一式は、わたしにとって「気分の上がる大好きな黒いワンピース」と同じ立ち位置だ。
そう決めたら迷わない。ギリギリだけどちゃんと間に合うことは、繰り返し着ているからわかっている。姿見の中の自分を確かめて家を出た。

とはいえ、ちょっと心配だった。
「はじめまして」に続いて、紹介者に「この方はきものがお好きで、いつも着ていらっしゃるんですよ、素敵ですよね」と言われて身を縮めたけれど、お相手の方はちょっと目を細めて、「きものはいいですね、よくお似合いです」。
ここからはごく和やかに、ごく自然に打ち合わせは進んだ。

どこからも文句のつけようのない「ちゃんとした一式」でも良かったけれど、大好きで体になじんだ、いつもの一式を選んだ。だからこそ、初対面の方の前でも、いつもの調子で、変に構えずにいられたのだと思う。

「着なかった日」もあれば、「着た日」もある。

奈良女子大学文学部を卒業後、美術印刷会社の営業職、京都精華大学 文字文明研究所および京都国際マンガミュージアム勤務を経て、2015年に独立。岩澤企画編集事務所を設立する。
ライター業の傍ら、メディアにおける「悉皆屋さん」として様々な分野で活躍中。
30歳のときに古着屋で出会った一枚のスカートをきっかけにモード系ファッションの虜となり、40代から着物を日常に取り入れるようになる。現在、病院受診と整体治療のある日以外はほぼ毎日、きもので出勤している。

岩澤さんのnoteはこちらより
https://note.com/mimihige

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