子どものころ、テレビで観た映画、『極道の妻たち』。
岩下志麻さん演じる「姐さん」の、細くV字に合わせた襟元で光る一粒ダイヤモンドのネックレス。きものにはまだ何の関心もなかったが、子ども心にも「このネックレスひとつで、『極道の妻』になるんやなぁ」と、理由もわからないまま納得した記憶がある。
何十年経ってもこのビジュアルを見るたびに同じことを思うのだから、よほど印象が強かったのだろう。今思えば幼いなりに、つややかに結い上げた髪と贅を尽くしたきものにダイヤ、という、強烈な違和感と「やりすぎ」感が、「極道の妻」というある種の「異端」を象徴していると感じたのかもしれない。
これは極端な例だけれど、お茶席やお悔やみの席などルールが明確な場合は別にして、楽しんで着るきものに合わせるアクセサリーは、着る人の数だけ「マイルール」がある。
例えば、わたしの場合。
ピアスはつけるけれど、スタッズタイプのみ(揺れるタイプはしない)。
リングはつけるけれど、ネックレスやペンダントはしない。
時計やメガネまでアクセサリーに数えるなら、腕時計はしない。代わりに指輪形の時計をつける。
メガネはむしろ積極的に取り入れる。
でも、ゆかたにはメガネ以外は何もつけない。
――これを「マイルール」と言わずして、何と言おう。
上村松園や鏑木清方はじめ、明治・大正の美人画や同時代の小説には、きものの上から長い長いネックレスをさらりとかけていたり、小さなブローチを襟に留めたり…といった場面がよく登場する。この時代のきものとアクセサリーの関係はもっと自由で闊達。「きもの警察」などという物騒なことばが幅を利かせる今より、女性たちはもっとのびのびとアクセサリーのおしゃれを楽しんでいたらしい。
今だってきっと同じだ。
「ゆかたに、ガラスの揺れるイヤリングをしたい」とか、
「華奢な腕時計を、クラシックなやわらかものに合わせたらすてきじゃない?」とか、
「メガネはやっぱり、きものには似合わないと思う」とか、
好き嫌いはあって当然。「わたしは、これはやらない」という選択もちろんあり。
極道の姐さんも、モダンガールも、正統派の王道も、着るひとの数だけ「マイルール」があっていい。
きものだって、「生物多様性」。
その多様性こそが、これからのきものの未来を、より豊かに、より自由にするのだと思う。

奈良女子大学文学部を卒業後、美術印刷会社の営業職、京都精華大学 文字文明研究所および京都国際マンガミュージアム勤務を経て、2015年に独立。岩澤企画編集事務所を設立する。
ライター業の傍ら、メディアにおける「悉皆屋さん」として様々な分野で活躍中。
30歳のときに古着屋で出会った一枚のスカートをきっかけにモード系ファッションの虜となり、40代から着物を日常に取り入れるようになる。現在、病院受診と整体治療のある日以外はほぼ毎日、きもので出勤している。
岩澤さんのnoteはこちらより
https://note.com/mimihige